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久宝寺口駅の土地(売買)
久宝寺口駅物件一覧
- 沿線
- 久宝寺口駅
- 価格
- 下限なし~上限なし
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- 下限なし~上限なし
- 駅徒歩
- 指定しない
- 間取り
- 指定なし
- 設備条件
-
指定なし
- 久宝寺口駅情報
- 普通電車停車駅。当社、MORE都市開発(株)の最寄り駅です。
駅の近くは医療機関や店舗が十数件あります。
駅前の通りから1本入ると、住宅や小規模の会社などが立ち並んでいます。
駅の西側には中央環状線が通っており、道路沿いは大型の店舗や会社があります。
八尾市の西部に位置し、東大阪市に近い位置になります。
個人的には駅前にスーパーが欲しいところですが…
お買い物は、スーパーコノミヤ大蓮東店、フレッシュマーケットアオイ久宝寺店、
サンディ八尾山城店が便利です。
アリオ八尾やリノアスにも電車で1駅、自転車でも10分程で行けるので、
近鉄八尾駅前よりは静かなところに住みたい…という方におすすめの街です。
駅周辺のおすすめ店舗
★中国料理大幸 地元の人気店!持ち帰りも充実しています。
★レアリッチ パチンコ屋さんの2階にあるパン屋さん。山型生食パンのお店です。
1斤700円くらいで、種類も豊富です。
★マルキーズ エ ガロピーヌ 洋菓子屋さん 赤玉シュークリームが人気のお店です。
ケーキや焼菓子もあります。
駅周辺
大阪中央環状線
近畿自動車道
長瀬川
久宝寺寺内町
久宝寺緑地・久宝寺プール
八尾久宝寺郵便局
コノミヤ大蓮東店
げんき保育園
白鳩幼稚園
◇◇久宝寺寺内町とは◇◇
以下、久宝寺寺内町公式ページより抜粋
久宝寺の地名のはじまり
氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。
久宝寺寺内町の歴史的価値
久宝寺が歴史の表舞台に登場するのは、寺内町としての久宝寺でしょう。室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。
江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。
寺内町とは何か
戦乱に明け暮れていた戦国時代、各地で民衆が自分たちの生活を守り発展させようとする力が盛り上がりました。なかでも、浄土真宗(一向宗)の寺院と信徒(門徒)である民衆が宗教的な意識で一体となって、一向宗徒として勢力を示し、地方の守護大名や領主から独立や特権を認めさせ、信仰と一向一揆の力で自治的なまちづくりがされたのです。
寺院の境内の寺内町
寺院の周囲に町屋が建てられ、町家の外側を濠と土居(土塁)で囲まれ、町全体が広い意味での寺院の境内であるとの考えで寺内町と呼ばれました。
寺内町は一部日蓮宗でも見られますが、一般的には浄土真宗寺院を中核とするもので、浄土真宗の勢力が強い近畿、北陸、東海地方で数多く作られ、20余りが知られています。
寺内町の繁栄
天文7年(1538)、大坂(石山)本願寺は、幕府から諸公事(諸雑税)免許、経済の発展を阻害する徳政令の適用の除外などの特権が認められました。すでに確立していた守護権力が寺内に入れない特権(治外法権的なもの)もあって、寺内一円に対する本願寺の支配権が確立すると同時に、寺内に居住する商工業者の取引の安全を保障する道が開かれて町が発展しました。
各地の寺内町
各地の寺内町は、本願寺を後楯にして、守護大名から本願寺の特権をモデルとした特権を獲得していき、浄土真宗の強力なネットワークが形成され、本願寺がその中心かつ頂点にあったのです。寺内町の成立によって、多くの信徒が集まり住むとともに、特権によって租税が軽い、商いがしやすいとのことで、信徒以外の農民や商人も入り込んで人家が増え、商業活動は活発となり、地域の商品経済を発展させる中心となりました。
久宝寺寺内町の成立
蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。
八尾街道の主要路
顕証寺が一切の町の支配権を持ちますが、顕証寺の創建に協力し、乱世の中で顕証寺と連携していた土豪・安井氏にその権が委ねられました。久宝寺寺内町は、摂津から天王寺、平野を経て大和へ通る八尾街道の主要路にあり、また、旧大和川河畔に位置し、大坂から南大和へ通ずる水上交通の要衝の地にあったこともあって、中・南河内の真宗信徒集団を束ねる拠点ともなりました。
久宝寺寺内町のまちなみ
戦国期の久宝寺の絵図は現存していませんが、寛永年間(1624~44)に描かれたと言われている久宝寺屋敷方堀藪絵図によりますと、 顕証寺の西・北・東に拡がる信徒の屋敷すべてを含めた地域の周囲に、大和川の水を引いた二重の濠をめぐらし、濠と濠との間に土居(土塁)をつらね、町の入口は、東に東口と今口、西には古口と西口、北には北口、南には南口の六ヶ所で、それぞれ木戸門と番所が設けられています。
碁盤の目のような街路
享保8年(1723)の寺内絵図(木村家蔵)では、濠の内側に、北から南へ大手町・米屋町・馬追町・表町・中之町の五町があり、大手町から南へ直進する広小路のほか、碁盤の目のように街路が通じていて、入口を入った所がT字路となっています。二つの絵図と現在の地図を比較しますと、道路網は大きな変化はなく、いくつかの濠の名残りがあり、今も寺内町としての景観が残されていることがわかります。
久宝寺寺内町を守った土居と濠
享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。
石山合戦と久宝寺寺内町
久宝寺寺内町の場合、顕証寺が一家衆寺院であることから、顕如上人と共に和睦に同意しました。しかし教如上人の懇請により、蓮如上人時代よりの世話寺である慈願寺が中心になって信長と戦うためにひそかに信徒を派遣しています。
久宝寺寺内町の分裂
慶長7年(1602)本願寺は東西二派に分かれ、顕証寺は西派に属しましたが、同11年には、久宝寺寺内町も分裂しまた。久宝寺寺内の森本七郎兵衛ら17人が安井氏に反発し彼らを支援した慈願寺とともに久宝寺を離れ、大和川(現長瀬川)の対岸に移り、八尾寺内町をつくることとなりました。
久宝寺寺内町の終焉
石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。
久宝寺寺内町の支配権を返上
久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。
近世の久宝寺
久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。
◇◇久宝寺緑地◇◇
八尾市西久宝寺、東大阪市大蓮南、大阪市平野区加美東に広がる都市公園です。
甲子園球場の約10倍の広大な敷地を持つ公園です。
大阪四緑地の一つです。(服部・鶴見・大泉・久宝寺)
北エリア・中エリア・東エリアの3つに分かれ、それぞれ「ファミリーゾーン」
「スポーツゾーン」「プレイゾーン」と呼ばれています。
小さい子供から高齢者まで、どなたでも楽しめる広大な公園です。
公園内には以下の施設があります。
駐車場
テニスコート
スポーツハウス
硬式野球場
軟式野球場
陸上競技場
プール
スケートボードエリア
BBQエリア
芝生広場
こども広場
修景広場
シャクヤク園
花の広場
健康広場
風の広場
池
もくもく元気広場
幼児コーナー
まいまい広場
よちよちランド
★★ ’22年3月オープン 東地区新エリア あいあい広場 ★★
久宝寺緑地の東地区に幅広く利用できる新しい遊具が設置されます!
名前の由来:人とのふれあいの「あい」
子供の成長を温かく見守る愛情の「あい」
広場のテーマカラー河内木綿の藍染の「あい」。
3つの「あい」から名づけられました。
児童用複合遊具
ロッキング遊具
パネル遊具
乳児用滑り台
幼児用滑り台 クリーパー
スイングブランコ
ウレタン遊具
新エリアの遊具の対象年齢は3~6歳、3~12歳のもののようです。
小さなお子様から小学生まで遊べそうですね!オープンが楽しみです。